SS:江戸の敵を長崎で
玄関に入るとヒールの高い靴があった。
谷さん、来ているんだ、とその家の長男にして一人息子の今泉森哉くんは思った。土曜の昼下がり、確かに仕事は休みだから来ていてもおかしくはない。
リビングのドアをノックして部屋に入った。
「こんにちは。」
森哉が声をかけると、谷はテレビを見たまま振り返らずに右手をひらひらさせて答えた。それほど愛想のいい人ではないが、礼儀正しい谷しては珍しい。それになぜこのDVDを見ているのだろう。
キッチンには苺の甘い香りが充満していた。
「あ、苺ジャム?」
アクをすくう手を休めずに時枝がうなづく。
「今日ね、1パック300円だったのよ、ジャム用苺。つい買っちゃった。」
「ところで、谷さん、なんで一人で星組キャメラ見てるのさ?」
ふう、と大きなため息をついて、木ベラでジャムをかき混ぜた。
「あのね、谷さん、今、定額給付金の対策本部にいるの。」
「えっと、住民サービス課じゃなかったっけ?」
「そうよ。でも国が定額給付金の支給を決めたでしょ。でもだからってそのために新規に人を増やせないし、増やすにしたって役所の仕組みがわからない人では仕事にならないから、本来の業務を抱えながら給付金の仕事もすることになってね。毎日、夜遅くまで準備に追われているんだって。」
「それで疲れているんだ。」
「うん。お父さんも商工会議所の春祭りで、なんとか地元の売り上げ増を計らないといけないから今日も打ち合わせに行って遅いしね。あ、もーちゃん、冷蔵庫から牛乳と卵出して。」
心の中で、もーちゃんって言うな、とつぶやきながら、冷蔵庫を開けて言われたものを出した。ふと目に留まる深いグリーンの瓶。
「奥山ワイナリーのワイン。しかも赤白ロゼ三本セット・・・。」
「あ、それ谷さんのお土産。今日はお泊りコースよ。」
「お泊りコースというか、飲み倒しコースというか。」
軽く首を振りながらつぶやく。
コンロの火を止めて、今度はボールに卵を割りいれハンドミキサーをかまえて時枝が言う。
「なんだかね、疲れているから、とりあえず座ってもらって、紅茶を出したらね、ポツっと、あれが見たい、って言い出すのよね。」
「あれって、星組キャメラ?しかも最初のヤツ?」
「そう。なんかね、以前、見せた時には、ふ~ん、って感じだったんだけど、今日はすごく見入ってるでしょ?」
「確かに。」
「自分より若い人たちが、他の仕事も抱えて忙しくてたいへんなのに、たった一ヶ月であれだけの舞台をみんなで心を一つにして作っている姿を見たくなったみたいなの。」
「・・・・・・それって、今の仕事が上手くいってないから?」
「仕事として量的にたいへんなのもあるけど、対策本部で仕切っていた課長さんが倒れられたそうなの。」
「大変じゃないか。」
「元々血圧が高い人らしかったけど、無理がたたったみたいでね。脳梗塞だか脳卒中だかで絶対安静が二週間は続くらしいから。」
二人とも黙って、目の前にある手作業、粉をふるったり、溶かしバターを作ったりした。そしてオーブンのスイッチを入れると、やることがなくなってしまった。
「さて、それじゃ付き合いますか。」
「まだお日様は高いけどね。」
親子で共犯の笑いを浮かべ、グラスと瓶を抱えてリビングに向かった。
・・・数日後・・・
「あら、谷さん、久し振りですね。」
どうにも基礎化粧品の類がなくなりそうで、買出しに行かないといけなくなり出かけた化粧品店。疲れていて、上手く答が返せず、少し口の端を上げて微笑んだ。
「・・・なんだか、きれいになられました?」
「は?」
思わず間の抜けた声が出る。鏡を見るたび、疲れて、血色もぱっとせず、エステとかマッサージとか行ったほうがいいんだろうか、とため息混じりに思っていたのに。とんでもなく意外なことを言われる。
必要な品名を言って、用意してもらっている間にも、肌色が明るくなって、雰囲気が大人っぽくなって、と誉められる。向こうも客商売だから誉めるのも仕事のうちなんだろうが、背中がくすぐったくなるくらいだった。でも、まあ、いいか。誉められるのは、決して気分の悪いものではないし。
このところ仕事面で運が悪いとか、面倒ばかりだ、とマイナス思考が続いていたが、少し気分が持ち直す。仕事と美容では方向性が違うけれど、江戸の敵を長崎で、と言うしな。ここで悪くても、別のところで良ければ、帳尻は合うのかもしれない。いずれにせよ、同じ自分のことなのだから。
*****おまけ******続きを読むより
事実とフィクション入り混じってます。もちろん、あたしは定額給付金の担当もしてませんし、上司が脳梗塞で倒れてもいませんが、周囲であった似たような状況を元にして書いてみました。
あたしも、今、色々とたいへんでして、本日、久し振りの休みに、ようやく買い物に行けました。化粧品ってね、それなりに高額の買い物なので余力がないと買いに行けないのですよ。で、谷さんではありませんが、めちゃくちゃ誉められました。う~んう~ん、いい年なので、大人っぽくなった、と言われると、それはそれで嬉しがっていいのだろうかと悩みもするのですが、まあ、素直に喜びましょう。
帰りに苺1パック300円ジャム用を発見して、大喜びでゲットしました。煮詰まった気持ちは、苺を煮詰めることで解消しましょう。
そして星組キャメラ。元気もらってます。ふと気づくと「ここパラ」を口ずさんでます。この歌に出会えてよかった。前向き志向の元です。
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