short story

久しぶりのショートストーリー

花丸苑より

 

 わたくしが住んでおります、ここ花丸苑は老人のための、ちょっと高級なアパートのようなものでしょうか。わたくしがこちらに住まうようになりましたのは、夫が亡くなり数年の一人暮らしの後の事です。

 幸いと申しますか、遺族年金もありましたし、特に病気にもなりませんでしたから暮らしていくには困りませんでした。けれど、いつの頃からでしょうか、出かけるのが億劫になっていました。そして、ある日、ふと気がつくと、すっかり夜も更けていたのに、夕食の支度をそのままにぼんやりと座りこんでいるのに気がつきました。

 これが老人性うつというものなのかしら。聞きかじりの言葉をあてはめて、底の見えない井戸を覗き込んだような気持ちになりました。

 子どもたちはおかげさまで、皆、健やかに育ち、故郷を後にして就職し、結婚をし、生活の基盤を持ちました。今更、わたくしのことで負担をかけることはしたくありません。けれど一人で暮らしていくことには限界があることもわかりました。

 これまで縁がありませんでしたが、初めて自分のことで役所の窓口に相談に参りました。そこで、こちらのことを知り、お世話になることを決めました。

 申し遅れましたが、わたくしは豊栄ウメと申します。年齢は、そうですね、わたくしも女ですから、まだ八十になっておりません、と申しておきましょうね。ええ、お笑いになってもかまいませんよ。でも、こういうささやかな見栄というのは存外に心の張りになりますの。

 さて、わたくしがこのような文章を書いていますのは、こちらの管理をされている方から、この花丸苑の宣伝をするための紹介を書いてくださいと頼まれましたからなのです。とても無理ですよ、と申し上げたのですが、どなたかへの手紙のような感じでかまいませんから、と言われますと断りきれませんでした。後で、ちゃんと手直しをしてくださいね、と念を押しておきましたので、この部分は省かれているかもしれません。

 ようやく本題に入りますね。こちらの花丸苑にお世話になることを決めたわたくし個人のきっかけは先に書いたとおりです。でも、色々な施設がある中で、なぜこちらにしたかというと、実は、花丸苑には特別な訓練センターが併設されているからなのです。

 老人のための施設ですから訓練センターというと、リハビリなどの老人のための訓練を行うところだと思われるでしょう? そうじゃないのですよ。犬の訓練センターなのです。ドッグランというそうですが、犬たちが自由に走れる広場もあり、20匹くらいの犬たちが日々、訓練を受けております。

 どうして老人のためのアパートの側に犬の訓練センターがあるのか、どなたも悩まれることだと思います。なんでも、このアパートを作られた川原さんのお母様が、たいそう犬がお好きだった方なのです。ご自宅で最期を看取られたそうなのですが、その最期の時まで愛犬のジョンが付き添っていて、お母様の心の支えだったとのこと。ですから、川原さんは採算は置いておいて、この一連の施設はこれからの老人の、こちらの施設のパンフレットに書いてありますクオリティ・オブ・ライフ、生活の質を高めるために実験的に作られたのだとか。ちなみに花丸苑としたのは、亡くなったお母様に花丸をもらえるように、ということなんですって。男の方って、こんな風に可愛いらしいことを、時々、申されますわね。

 あら、話が長くなりましたかしら。そうそう、わたくしも犬は好きで、子どもたちにねだられる度に飼ってはみたかったのです。でも、転勤族でしたので、次の住まいで飼えるかどうかわからないままでは、どうしようもありません。子育てが終わり、やっと落ち着いて暮らせると思った矢先に夫が倒れたものですから、気がついたら犬を飼えるような年齢ではなくなってしまいました。散歩が十分にできないと可哀想ですもの。こんなおばあちゃんでは、犬が走り始めたら、その勢いで転んでしまいそうなのも怖かったですしね。

 それが、こちらのアパートでは犬たちの訓練の一環として、わたくしたちとの散歩をさせていただけるのです。もちろん歩かれるのが辛い方は、ただ撫でているだけでもかまいませんの。

 大事なことを書くのを忘れていましたわ。こちらのアパートでは、最初に入居する時に10年間の保証金として入居料をお支払いします。入居後の10年間は光熱水費と食費などの基本的な料金をお支払いする形になります。ですから入居の際の費用は、かなり高額になります。わたくしも住んでいた土地と建物を処分しました。それくらいしか財産がございませんでしたし、子どもたちも了承してくれました。10年を超えた場合は、基本料金に上乗せがありますけど、その時の自分がどういう状態なのかはわかりませんですし、その時には、潔く子どもたちに迷惑をかけるつもりです。

 もしかして、老人なのだから10年しない内に死んでしまうんじゃないかって、ご心配ですか? そうですわね。その場合は、お葬式などの費用に充てらえることが多いと思いますよ。ですけれど、多くの方は、こちらの施設に遺贈されるのではないかしら。

 わたくしも、そのつもりなのです。それはサクラとの出会いがありましたから。

 サクラは、とてもきれいな白い犬で、なんでも飼い主の方が保健所にいたサクラを選んで連れて帰られたそうなのです。ですが、日本の住居環境は、なんて厳しいのでしょうね。老齢になったサクラを連れて散歩していると、自分の庭先にオシッコをされたと非難される方がいたとか。困られた飼い主さんは、わたくしと同様、こちらの施設の噂を聞き、また会いに来ることを約束して預けられたそうです。

 ええ、こちらの訓練センターは、犬の訓練を引き受けるだけでなく、飼いきれなくなった犬を引き取ってもくれるのです。もちろん、ただ引き受けるだけではパンクしてしまいますから、新しい飼い主を探してくださるのですよ。

 でも、サクラのように老齢になった犬は新しい飼い主も見つかりにくいだろうからということで、わたくしたち花丸苑の住人みんなの飼い犬という扱いになるのです。

 そう、サクラに出会ったのは、彼女の名前の通り桜の花の舞い散る季節でした。入居したばかりの不安でいっぱいのわたくしを支えてくれたサクラ。ええ、その頃のわたくしは、人と話すのが怖くなっていたのです。時間の感覚も、人づきあいの仕方も忘れてしまっていたようなわたくし自身への不安。でも、彼女と散歩に行き出して、思い出しました。草を鳴らす風。鳥たちの囀り。踏みしめる土を感じる足の裏。そして、しっかり散歩をして帰った時の食事の美味しいこと。いえ、何よりもわたくしが訪れた時のサクラの喜びよう、それが何よりも幸せなのです。

 わたくしはサクラに生きるということの実感を思い出させてもらいました。彼女は犬ですから、犬らしく生きています。他の犬に対して不機嫌な態度を示すことも、いつまでも自分の満足いくまで草を嗅ぐこともやめません。かなりの高齢なのに、散歩から帰るのが嫌だとぐずる時の力の強いこと。

 生き物が生き物らしく生きることの大切さ。なんだか大げさですけど、わたくし、思うんですの。わたくしの孫たちは、とても礼儀正しいのですけど、なんだか生きる力がサクラよりも乏しいのじゃないかしらって。

 いやですわ。なんだか、ただの飼い主の自慢みたいになってしまって。こういう風に花丸苑の住人には、それぞれお気に入りの犬がいますの。いえ、こう言った方が言いかしら。花丸苑に入る最大の条件、それは犬が好きなこと。わたくし、幸せですわ。もちろん、このような施設に入るには、お金が必要です。それは夫に感謝しています。わたくしの持ち物で、一番の宝物は夫の位牌ですもの。でも、先に逝ってしまいましたからね。わたくし、あの世で貴方に会ったら、たくさん文句を言ってやりますからね。それから、ありがとう、って。

 あらあら、これでは訂正をされる方が困ってしまいますね。でも、わたくし、文章を書くのは苦手だって申しましたもの。頑張って、手直しくださいませ。

こうして色々なことを改めて思い出せたわたくしの感謝の気持ちを噛みしめながら、ね。

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おまけコント:手持ち無沙汰で

 友人と旅行に出かける予定がつぶれてしまい、所在無いままに郊外型ショッピングセンターでお茶していた谷さん。そこで大学生の息子のデートの現場を見守る時枝の姿を発見。思わず叱り飛ばしに行ったのでした。

谷 :とりあえず、こっちに来なさい。(腕を取って店の入り口方面へ引っ張る)

時枝:・・・た、谷さん?旅行に行ったんじゃ?

谷 :諸般の事情で中止、あるいは無期延期。そんなことはさておき。

時枝:何か、怒ってる気がするけど、気のせいだよね。

谷 :いいや、気のせいじゃないよ。理由はわかると思うけど。

時枝:えっとぉ、わかりません。

谷 :あのねぇ。(森哉たちがいた方を見る。二人の姿はもうない)

時枝:(つられて谷と同じ方向を見つつ)・・・あ、消えちゃった。

谷 :今度はわかったかな?

時枝:違うの、違うってば。別に自分の息子を付回したりとか、そんなことじゃないから。

谷 :ふ~~~ん。

弘 :すみません、事情は自分が説明しますよ、谷さん。

谷 :えっと、あ、今泉さん。

弘 :いつも妻がお世話になっています。

谷 :とんでもない。こちらこそ。・・・その、ご夫婦でお出かけでしたか。

時枝:うん、この人ってば銀行に勤めていたときはずっと背広にネクタイだったでしょ?でも、今の職場ってクールビズっていうか、くだけた服装でもいいのよ。

弘 :お恥ずかしい話ですが、カジュアルな服装をしてくるように職場の面々に言われまして。ただ自分ではどんなものがよいかさっぱり・・・。

谷 :それで、今日は買出し、ということですか。

弘 :そういうことです。それでちょっと手洗いに行っている間、そこのソフトクリーム屋が美味いと聞きまして、買ってきてもらうよう頼んでいたのですが。

時枝:まさか、もーちゃんが葉子ちゃんと一緒に来ていると思わなくて。買いにいくこともできなくって、ボーってしてたの。

谷 :・・・ごめん。私の早とちりだった。

弘 :いえいえ、いつも彼女に振り回されていれば、そうなりますよ。

谷 :そう言っていただけると助かります。

時枝:わかればいいのよ。

弘 :おまえ、そんなに偉そうに言わなくても。

谷 :あ、まあ今回は全面的に私が悪いので。それより買い物の邪魔をしてすみませんでした。私はこれで。

弘 :そうですか。また家に遊びに来てください。喜びますから。

時枝:そうだわ、旅行が中止になったなら今晩は家でご飯にしましょ。炊き込みご飯に春キャベツの炒め物に鯵のいいのがあるから焼き魚にするし。ね、いいでしょ、弘さん。

弘 :それはこちらはかまわないが、そんなに急に、谷さんにご迷惑じゃないかね。

時枝:迷惑?

谷 :あ、いや、迷惑ということはないですが。

時枝:じゃあ?

谷 :悪いけど、旅行がダメになった分、今晩は残念会をする予定だから。

時枝:そうなんだ。

弘 :そんなにがっかりしなくても。またの機会があるだろう。

谷 :そうですね。また伺います。それじゃ。

時枝:またね。

弘 :(軽く頭を下げる)

谷 :(少し離れたところで苦笑しながら独り言)・・・仲良し夫婦にあてられるのも楽じゃないね。

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SS:手持ち無沙汰で

 郊外型のショッピングセンターというのは、随分オシャレになったものだな、と谷は2階のカフェテラスから中庭を見下ろして思う。

 ゴールデンウィークの前半戦、ようやく日本国内民族大移動による転出入届ラッシュが一段落し、友人と息抜きの旅行に出かける予定だったのだが、時ならぬ病気の流行で中止になってしまった。何しろ一緒に出かけるはずの友人の仕事は保健師。連休返上で役所内に臨時に設けられた電話相談所に詰めることになってしまったのだ。

「ま、税金で雇われているから、市民の安全確保のために働くのは当然よね。」

 約束が反古になったことを詫びながら、彼女は苦笑して言った。確かに。詫びられている谷も、事態が急変したら各家庭にマスクを配布する作業が待っている。当然、そのために臨時に職員が増えるわけではないので、手持ちの仕事と兼ね合いながらの作業になり、その交通整理を行わなくてはならない。

 だが、とりあえず今は。

「・・・世は全て事もなし、か。」

 運ばれてきたチャイを飲みながら、中庭に集う家族連れを眺める。実に楽しそうだ。天気もよく、もうすぐ始まるイベントを待ってステージ周辺に集まっている。谷にはよくわからないが、子ども番組のキャラクターが出るらしい。あの人たちは、こうやって他人に頭上から眺められているなどとは思わないのだろう。仮に気がついたとしても、だからどうだということもないだろう。

「おや、あれは・・・。」

 親子連れたちから噴水のある広場に目線をずらすと見かけた姿があった。思わず頬が緩む。

「青春だねぇ、森哉くん。」

 心の中でそうつぶやく。見つけた友人の息子はデートらしい。このショッピングセンターはシネコンもあるので、映画でも見に来たのだろう。手にパンフレットらしきものを持っている。実に初々しい。広場の片隅に出ているソフトクリーム屋の前でぎこちなく会話を交わしている。

「げっ。」

 次の一瞬、植え込みの影に、これは見てはまずいものを発見した。ヲイヲイ、母親が息子のデートを覗き込むんじゃないって。慌ててチャイを飲み干し、カーディガンを羽織りなおすと外へ向かった。

 全く、手持ち無沙汰なはずの休みが慌しくなったな。これも巡りあわせ、かな。にやり、と口角が上がった。

 

 

 

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来年が良い年でありますように

http://bigwig.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-0686.html この話のおまけコントになります。

今泉:ただいま。

時枝:おかえりなさい。んでんで、どうだったの?渡せた?

今泉:母さん、とりあえずコート脱がせて、座らせてくれ。って、あ、今晩は、谷さん。

谷 :今晩は。まあ、座ってから、じっくり話を聞こうか?

今泉:・・・母さん、どこまでしゃべった?

時枝:やあねぇ、息子の青春話なんて、面白いから全部に決まってるじゃない。

谷 :いいじゃないか、母の愛情なんだし。

今泉:この人のは愛情じゃなくて野次馬根性というか・・・。それよりこのまま行くとマザコンのレッテルを貼られそうなのが問題です。

時枝:ひどいわねぇ。もーちゃんのことをマザコンだなんて。

今泉:だぁかぁらぁ・・・、もーちゃんじゃなくて・・・。ああ、もういいです。

谷 :しょうがないね。親バカじゃなくてバカ親だから。

時枝:谷さんってば、ひどーい。

今泉:はあ、もういいです。

谷 :諦めがついたところで成果のほどは?

今泉:ちゃんと渡してきましたよ。マフラーもね。はい、報告終了。

時枝:それだけ?

今泉:それだけ!

谷 :ホントに?

今泉:本当に!

時枝:つまらないわねぇ。

谷 :うん、つまらない。

今泉:・・・そんなに言うなら、お二人の若い頃の武勇伝でも聞かせてもらいましょうか?ぜひ、勉強のために。

谷 :悪い、ないわ、そういう話。

時枝:聞きたいの?お父さんとの馴れ初めとか?

谷 :ああ、あの問題の多いあれか。

今泉:問題?

時枝:問題というか、問題発言というか・・・。

今泉:なんか怖そうだから、やめときます。

谷 :賢明な判断だな。

今泉:・・・・・・。

谷 :ま、良かったんじゃないか、渡せたんなら。あせらなくてもさ。来年の目標ができて。

今泉:年越しの気分ですね。

時枝:そうね、来年が良い年でありますように。

谷 :心からそう願うよ。

今泉:ですね。

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プレゼント

 星がよく見える。冬の空気が澄んでいるからだ。ちらっと空を見上げて思う。

 昼間にあったサークルの打ち上げ兼忘年会を抜け出し、見慣れた通りを早足で歩く。腕に抱えた紙袋がかさこそと乾いた音をさせる。頭の中は何をどう話したものか、まとまらない台詞がぐるぐる巡っている。

「はあっ。」

 吐いた息が白い。ようやくたどり着いたのに、そこで足が止まってしまった。危うくそのまま後戻りしそうになったところへ声をかけられた。

「今泉さん?」

「あ、やあ、こんばんは。」

「こんばんは。」

 その後が続かない。

「えっと・・・、お店のお手伝い?」

「はい、今日、クリスマスでしょ?単身赴任のお客さんたちって、こういうイベントの日は一人の家に帰りたくないって、うちのようなお店に来られるみたいで大忙しなんです。」

「あれ、でも・・・。」

 そういえば以前、葉子の兄から聞いたことがある。家が小料理屋なので、それなりに手伝いはさせられてはいるが、やはり酒が出る場には姉妹は手伝わせないようにしていると。

 葉子がくすくすと笑っている。

「何?」

「あのね、今泉さんが考えていること、わかっちゃったから。なんだかおかしくて。」

「ええっと・・・。」

「お店の手伝いといってもお皿洗ったり、お掃除したりが主なの。実さんが言ったとおりお客さんのいるところにはいないんです。今は外の物置に用事があったから出てきたところなんです。」

「そんなにわかりやすいかな、僕。」

 ふるふると首を振る。髪が頬にかかる。

「なんだか、とっても心配そうにしてるから、もしかしたら、そうかなって。あの、今泉さんはどうしてここへ?」

 思わず抱えていた紙袋を握り締める。どうにも言いにくい。もっと何とかしたかったと後悔する。ここに来て、ここで出会って、逃げるわけにはいかない。

「これを渡したくて。その・・・、クリスマスだから。」

 少し驚いた表情で見上げる彼女に、ようやく紙袋を渡した。

「ありがとうございます。」

 受け取って微笑む。

「中味なんだけど・・・、今日、サークルで施設でクリスマス人形劇をやって、その時に子供たちに配ったカードと・・・。」

 ここでため息。

「その、母が君にってマフラーを編んでて、それで渡すように言われて・・・。」

 様にならない。全く・・・、自分で編んだって言ったほうがよっぽどましだと思う。だけど、そんなつまらない嘘をつくのも情けない。

「開けていい?」

「どうぞ。」

 丁寧にテープを剥がし、そっとライムイエローのモヘアのマフラーを取り出す。

「きれいな色。それにとっても柔らかい。嬉しい。お母さんにありがとうって伝えてくださいね。」

 困った。可愛すぎる。冷静を装って、かろうじてうなづいた。

「それじゃ、寒いからもう中へ入った方がいいよ。」

「あ、はい。本当にありがとうございました。」

「うん、じゃあ、また。」

「はい、おやすみなさい。」

 軽く手を振って別れた。結局、言えなかったけど、気がついてくれるのは何時だろう。あの袋の中にあるネックレスの小さな包みに。

 

 

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一期一会

「あれ、谷さん、おはようございます。」

 早朝のリビングには来客があった。スーツを着込んだ彼女は切り干し大根を盛った小皿をテーブルに置くと振り返った。

「おはよう、森哉くん。ごめんよ、こんな朝早くに押し

かけて。」

「いえ、いいんですけど。」

「あ、もーちゃん、起きた?朝ごはん持って行くわね。」

 台所のドアが開くとお味噌汁のいい香りがふんわりと漂った。ご飯と味噌汁、鮭のホイル焼きがお盆で運ばれてきた。テーブルの上には大根とホタテのサラダ、肉じゃが、切り干し大根が並んでいる。朝から豪勢なのは一人暮らしの友人にしっかり食べさせたかったかららしい。

「今日は、どこかに出かけるんですか?」

「ほら、郊外にアウトレットモールが出来たろう?冬物を買い込みたいから付き合えってね。」

「そりゃ、ご愁傷様。」

「そんなにバカ丁寧に頭を下げなくてもいいよ。ふふ、こっちも昼酒が飲めるからね。楽しみなんだよ。」

「そうなの、谷さんってば買い物よりも、帰り道にあるワイナリーで昼間っからワインが飲めるのを楽しみにしてるんだから。」

「いいじゃないか、お互い様で。運転手してくれる分、昼食はおごるよ。」

 二人のじゃれあいを横目に森哉は朝食にとりかかった。

「さて、ご馳走様。久し振りに家庭料理を堪能したよ。」

「お粗末様。」

 時枝が食器を片付けかけると、洗い物を手伝おうと谷も立ち上がった。

「あ、母さん。ついでに洗っとくから置いといて。」

「わぁ、助かるわ。じゃあ、行きましょうか、谷さん。」

「悪いね、森哉くん。」

 軽く会釈して返す。男前な母の友人は、自分にとっても気の置けない友人のような存在で、自然と優しくなる。

「ありがとう、母君を少し借りるよ。」

「じゃあ、お父さんが起きたら、お鍋のお味噌汁温めて食べてもらって。それとお昼ごはんはお弁当にしてあるからって言ってね。」

 片手を振って了解の合図。女三人寄れば姦しいというが、二人でもなかなかにぎやかだ。

 乗り込んだ車にエンジンがかかると、音楽が鳴り響いた。

「・・・これって、もしや?」

「あ、わかった?夏に一緒に行ったレビュウショウのライブCDよ。」

「ああ、そうだね。」

 思わず黙り込む谷。

 友人のたっての頼みで東京へ出かけて、件のレビュウショウを見たときのことを思い出す。それは未知との遭遇だった。ものすごい勢いで物販に並ぶ客。時々見かける不思議な扮装の人物。中には可愛らしい衣装の子どももいたが、何かよくわからない動物の着ぐるみ、しかも手には肉球までついているほど凝った着ぐるみも歩いていた。ショウそのものも内容以上に、どこかで訓練してきたとしか思えない息のあった観客の手拍子、拍手、掛け声に圧倒された。おかげで肝心の歌やダンスはすごかった・・・気がするという曖昧な記憶しか残っていない。

「すごく・・・懐かしいね。」

「でしょ、でしょ。ちょうど往復で2枚組がちゃんと聞けるの。BGMにぴったり。」

 満面の笑顔の友人に、軽くうなづいてみせる。何事も忍耐だ。

      ・

      ・

      ・

「オ~、ジョージアー♪」

 帰りの車の中は二人で大合唱になっていた。

「いい曲よね、この曲も。」

「そうだけど、飲みすぎたからノドにくるよ、このシャウトはさ。」

「うん、まあ、フルボトル空くとは思わなかったわ。」

 片手で口を押さえて笑いをこらえている。

「いや、最高に美味しくってさ。・・・ん、この曲は?」

「ラチェットさんの『夢よ』。きれいよね。」

 確かに星がきらめくような前奏。でもこの歌詞は、なんて重いんだろう。

「あれ・・・。」

 運転に集中しているふりをして、友人はこちらを見ないようにしている。もういい加減、くたびれるくらい生きてきた年だと思っていたのに、なんだってまた瞼が熱いんだろう。ショウでは、話に追いついていくのが精一杯で心にまで届いていなかったのが、今頃わかった。

「そうか、これを生では、もう聞けないんだね。」

「うん、そうね。」

「そうか、残念だ・・・ね。本当に。」

「うん、でも、聞くことができて良かったよね。」

 水滴がこぼれないように、そっとうなづく。

   ・

   ・

   ・

 数時間後、リビングのソファで気持ちよさげに熟睡している谷とリビング中に戦利品を広げる母を今泉森哉は発見し、無言で自室にこもった。

 

 

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祖母の思い出

 毎年、祖母の命日になると母さんは決まって芋がらの煮物とひじきの煮物、鯵の南蛮漬けに冷奴を作る。祖母が好きな、母さんの得意料理。

 祖母、といっても僕の祖母ではない。母の祖母だから、僕にとっては曾祖母ということになる。だが、僕にとって母の母である人物とは縁がない。結局、僕にとっても明治生まれの母の祖母が、祖母のイメージに収まっている。

 「暑いわねぇ。」

 「夏だからね。」

 いつもの夏の、いつもの食卓。

 僕たちの住む家は、元々祖母の住んでいた家を建て替えたものだ。小さな庭、夏椿と山茶花、睡蓮を浮かべた鉢は昔のまま。昔の家は、今の家電品に満ちた生活には使い勝手が悪く、改めて僕たち家族が移り住むには都合が悪いので建て替えたのだが、庭だけはかまわなかった。その時は祖母はもう亡くなっていたので、どう変えようと誰も文句は言わないだろうに、父は、母さんはきっとこのままにしたいと思うよ、と言った。

 「お父さんが帰ったら、母さんもビール飲んじゃおうかな。」

 「いいんじゃない。」

 昔、母の中学の卒業アルバムを見たことがある。どちらかというと細身の母が、とても同じ人物とは思えないくらい太っていた。そして表情は、とても暗かった。見てしまったことを知られたくない、真っ先に思ったのは、そのことだった。

 例えば、買い物に行くとして、時々、中学や高校のときの同級生に会うことがある。それはそうだろう、地元なのだから。相手にはわからないかもしれないが、そばにいるとわかる時がある。母が緊張していることに。人の顔と名前を覚えるのが苦手な人だから、相手が誰か思い出せないせいだろうと、アルバムを見るまでは思っていた。

 「おばあちゃんってね、すっごく怖くて、厳しい人だったのよ。」

 「うん、知ってる。」

 詳しい事情は今も聞けずにいるが、母は両親との縁が薄い人だったらしい。中学のときに、この家で祖母と二人で暮らすことになった。

 おばあちゃんにお煮しめとかばっかり作らされたから、その反動でケーキとかクッキーとか作りまくって、作ったものを残すと怒られるからって全部食べてたの。おかげで太っちゃった。いつだったかケーキを焼きながら、そんな風に笑いながら話していた。家事全般を鍛えられたから、家庭科だけは成績が良かったし、とも。

 「ねえ、もーちゃん。」

 「何?」

 「おばあちゃんがいてくれて、良かったなあ。」

 「うん、そうだね。」

 「うふふ。」

 「今度は何?」

 「だって、もーちゃんって言っても怒らなかったから。」

 眉をしかめ、不機嫌を装って庭に目を移した。真夏の陽光がまぶしくて、目を細める。

 「ただいま~。」

 母さんがぱたぱたと足音を立てて玄関へ向かった。

 「お帰りなさぁい。あらぁ、すっごい汗。ご飯の前にシャワー浴びて。あっ、新しい甚平さんあるのよ。出しとくから着替えてね。」

 ばあちゃんが聞いたら、きっとにやりと笑うだろう。あの時ちゃんがねぇ、人の世話を焼く日が来るなんてねぇ、と。

    ********

 いつか書いときたかった時ちゃんの昔話ネタ。あの能天気な時ちゃんにも、辛かった青春時代があったのさ。とはいえ、あんまり重い話にはしたくなく・・・。

 はっ、おまけコントがないわ、珍しく。さすがに、おまけコント入れるほどには軽く出来ませんでした。

 あたし自身、母方の祖母にはずいぶんお世話になりました。一緒に住んでたことはないので、家事はちっとも鍛えられていませんが。

 おばあちゃん、ありがとうね。

 

 

 

 

死なばもろとも

 「ふうん、そんなに大変だったんだ。」

 クーラーの効いた喫茶店で熱いカフェオレを飲む。こんな贅沢はないんじゃないだろうか。そんなことを思いながらテーブルの上に置かれたチケットを見た。二枚重ねて置かれたそれは、某コンビニの名前の入ったチケット入れから出されたものだった。持ち主はにこにこしていたかと思うと、急に眉間に皺を寄せた。

 「・・・うん、ダフ屋に狙われてるかもしれない。」

 慌てて手で口を押さえた。やばいやばい、吹くところだった。いい年をして飲み物を飲んでいるときに噴き出す破目になるのは勘弁してくれ。というより、何を言っているんだろう、この子は。じゃない、じゃない、子だなんて。精神年齢は間違いなく『子』でいいが、実年齢は立派な大学生の息子がいるにふさわしい年齢だった。

 「谷さん、大丈夫?そんなにカフェオレが熱かった?」

 「う、まあ、そんなところ。で、時ちゃん、なんでそのレアなチケットが二枚あるのかな?」

 そう、さっきまで彼女は大学生の息子に手伝わせて、チケット大戦なるものがいかに大変かを語っていたのだ。なんでも、いやいや手伝っていたはずの息子でさえ空恐ろしく感じるほどチケットが売れていくのを示す×印が増えていったらしい。それ以前にハングアップして手続きをすることさえ困難だった・・・、とネット音痴の母に説明したらしい。結局、チケットを購入できたのは電話でリダイヤルしまくった本人だったというから、息子はしなくてよい苦労をさせられたわけだ。

 「だって、もーちゃんも一緒に行ってくれるって言ったから。」

 もーちゃん、つまりは彼女の息子の森哉くんは今泉家の大事な一人息子で、能天気な母親を反面教師にしたのか、実直な父親を見て育ったのか、年の割には老成したところがある青年だ。たまに論語読んで育ったのではないか、という疑問すら沸くことがあるくらいだから、イマドキ珍しい孝行息子といってもいい。だからチケット獲得の手伝いくらいはするだろうが、いくらなんでも母親と二人で旅行に行きたいか?二十歳前の男が?

 「あ、待てよ。」

 「何を?」

 「ごめん、今のは独り言。その、一緒に旅行に行くって約束したのは何時のこと?」

 「えっとぉ・・・」

 やっぱり。天井に答が書いてあるかのように目が宙をさまよっている友人を見て、納得した。何かのはずみで約束したにせよ、それが今回のこれとは限らない。

 「あ、そうそう。一年半くらい前になると思う。まだ、高校二年だったし。」

 度の過ぎた親孝行は、子離れさせられなくなるよ、森哉くん。若干、めまいを覚えて、軽くこめかみを揉んだ。思ったより昔じゃなかったけど、とりあえず今回のこれのことではない約束には違いない。

 「それじゃ、仕方ないね。で、そのレアなチケットはネットオークションでも売る?」

 「ダメよ、っていうかヤダ。そんな転売屋みたいな真似したくないもん。」

 「でも、他に方法ないでしょ?チケット手に入らなかった人に有効利用してもらうには、今ならネットオークションが一番当たり前になってきてるし・・・。やり方がわからないなら、それこそ森哉くんにでも手伝ってもらえばいいじゃない。」

 「だってねぇ、元々高いチケットの桁が一つ違うんだよ、ネットオークションのひどいとこなんか。とても堅気な人がやってると思えないし、ファン心理につけこんだあくどい商法だと思う。」

 お、珍しくマジ怒りだ。ふうん、ファン意識というのは怖ろしいねぇ。よく舌が回りました。少し引いた立ち居地で見ているが、本当はわかっている。次の展開がどうなるか。

 「だからお願い。一緒に行こう。」

 そうだね、そう言うと思ったよ。本当はチケットが二枚あるのを見たときからわかってた。

 「しかたないね。」

 深いため息をつきながら、私は言うんだ。

 「心から行きたいファンには申し訳ないけど、死なばもろとも、付き合いましょう。」

 ほらね。

    *******

 チケット大戦ネタです。谷さんは面倒見が良すぎです。それとも時ちゃんが甘え上手なのか。

 実際のチケット大戦を戦った人たちのレポを元に構成してみました。すごい勢いで空席がなくなったらしいです。発売30分で、ほぼどこも予定枚数終了だったとか。そして速攻、ネットオークションが高値で始まったそうです。初めてネットオークションのチケット情報を見て、びっくりしました。さすがに一枚25万円、というのはあたしの見間違いでしたが(2万5千円だと思われる)、18万円というのは確かにありました。もしかしたら連番で二枚組だったかもしれないけど、なんて法外な。

 実際、社会人やってればチケットの発売時間に仕事してることもあるだろうし、それで夜になって、ようやくコンビニのチケットサービス利用してみたら全部売り切れだったら、ネットオークションとか利用するしかないでしょう。だからネットオークションそのものを否定はしないけど、転売目的はやめようよ。ひどいよ、これ。それと気をつけないといけないのは、チケットの購入権利というのが対象になっていて、これは空手形つかまされることもあるらしいとのこと。正直、チケットがほしくても、正規ルートのキャンセル待ちか、ネットオークションもある程度、市場が落ち着いてから購入したほうが良さそうだな、と思いました。

 それにしても行ける人が、みんな行けるといいなぁ。

コント:健康第一

 いつもの今泉家のリビング。卓上にはどでかい梅酒の瓶とグラス、大皿と小皿が数枚。

時枝:谷さん、お代わり飲む?

谷 :あ、ありがと。それにしても、きれいな色になったね。去年作ったんだよね、この梅酒。

時枝:旦那の実家から大量に梅を送られてきた時にはパニクっちゃった。

谷 :そうだった、そうだった。泣き声で電話かけてくるから何事かと思ったよ。

時枝:手伝ってもらって助かっちゃった。一個ずつ手間をかけないといけないんだもん。

谷 :あー、大変だった。しばらく梅干もいらないと思ったもんね。

時枝:ちょうど頂き物のブランデーもあったからチャレンジしたけど、美味しくできて良かった。

谷 :うん。美味しい。ふふっ、飲みすぎてしまうのが問題だね。

時枝:どんどん飲んで。あんまり飲んでくれる人は家にはいないんだもん。

谷 :森哉くん・・・は未成年だからね。旦那は?

時枝:だって、メタボ、心配だもん。

谷 :おーい、私の健康はどうでもいいのか?

時枝:そんな、鋼鉄の肝臓の持ち主が何を言ってるのよ。しかも体脂肪率20%切ってるくせに。

谷 :(急に低い声で)・・・朝は細い足、夜は太い足・・・。

時枝:な、何?なんかの都市伝説?

谷 :はあ?なんで都市伝説?

時枝:じゃあ・・・、なぞなぞ?朝は四本足みたいな?

谷 :違うって。あのさ、この間、仕事の関係で講習を受けたの。朝から夕方まで一日。

時枝:学校の授業みたいな?

谷 :そう。もうずっと座ってたからさ、夕方には足がむくんでパンパン。

時枝:あ、それで夕方には太い足・・・

谷 :そういうこと。若いときはこんなことなかったんだけどね。

時枝:やっぱり年を取ると新陳代謝が悪くなるのね。

谷 :悲しいねぇ、しみじみと。

時枝:でも、ほら、やっぱり食べたり、飲んだりは楽しくしよ。その方がきっと体も喜ぶし。

谷 :・・・うん、ま、明日は休みだし、ゆっくり飲みますか。

時枝:それじゃ、改めてカンパーイ。

  ******

 仕事の関係で講習を受けていたときに思いついたネタ。いや、ちゃんと講習は聞いてたよ。最後のテストも満点だったし(たぶん誰でも満点取れるだろう内容でしたが)。

 それにしても一日中座っていると体が悲鳴を上げます。なんか体を動かすことを入れてほしかったです。谷さんではありませんが、足がむくみました。これって血管から水分が出てしまう状態だそうです。塩分を取ると余計にひどくなるので、塩辛いものは食べないように、また、カリウムがいいので生野菜とかトマトなんかを食べるといいそうです。むくむくらいならいいですが、これがひどくなるとエコノミー症候群、という可能性もあるので気をつけないといけませんね。

 ちなみに、この日の今泉家は、旦那は職場の旅行へ、息子も合宿で出かけたので、留守番がてら谷さんがお泊りに来ている、という設定でした。

エキストラ

 バスから降りて、集合場所である公園に向かった。その公園はオフィス街の中心にあり、お昼には周辺で働くビジネスマンたちの格好の休息の場所になっているらしい。平日は背広姿が目立つ噴水の周辺にカメラなどの撮影機材などが置かれ、スタッフとおぼしき黒服の集団が慌しく動いていた。

 噴水の反射に思わず目を細めていると、こっちだと呼ぶ声がした。初夏の日差しに緑を濃くした植え込みの側で鈴木先輩が手を振っている。

 「遅くなりました。」

 駆け寄りながら詫びた。

 「いいって、いいて。田中のヤツが急に頼んだんだろ?」

 「ええ、朝、家に電話がかかってきて、バイトをしてくれって言われて。随分、切羽詰ってたみたいだったんで、とりあえずここに来たんですけど。」

 鈴木先輩は僕の知らない他のメンバーと顔を見合わせながら、頭をかいた。

 「やっちゃったんだよなあ、あいつ。」

 ニヤついたり、呆れ顔になったりしながら、一頻り田中先輩の話で花が咲く。どうやら二股発覚で朝から(昨日の夜から?)修羅場だったらしい。

 「まあ、とりあえず人数揃える努力をしたから許してやるか。それじゃ、えっと・・・、今泉君だったけ、今日は夕方までかかるけどよろしく頼むわ。」

 「こちらこそ。エキストラのバイトなんて始めてで、何をどうしたらいいのかさっぱりですから、よろしくお願いします。」

 「なんてこたないよ。ほとんど待つのが仕事みたいなもんだからさ。」

 そういいながら、ざらっと今日の予定を聞かされた。

 風光明媚で知られる地方都市を舞台にした二時間サスペンスドラマのロケが昨日から行われている。今日は、夫の怪しい様子を疑うヒロインが、夫の働くビルを訪ねてくるというシーンと、ここから少し離れた海の見える喫茶店でヒロインが友人に悩みを相談するシーンを撮るということらしい。すでにビル近くの交差点での撮影の準備は進められ、そっちのエキストラはスタンバイに入っている。僕たちは喫茶店への移動までは用がなく、ただひたすら声がかかるまで待つのが仕事らしい。

 「先輩は、よくこういうバイトをしてるんですか?」

 「うん、まあ、オレは演劇部のヤツに知り合いがいてさ。そいつから話が来るんだよな。そういや今泉君って、高校のときは演劇部だったんだろ?勧誘なかった?」

 「ああ、それは・・・。」

 確かに勧誘はあったが、それほど熱心なものではなかったし、何より僕は役者じゃない。舞台に立つのではなく、舞台を作るほうがやりたかった。その辺りの考えが違っていたので、入部は丁寧に断った。

 「・・・演劇部以上に田中先輩の英語研究会の勧誘のほうがすごかったんで。」

 「そら・・・、災難だったな。」

 笑いをかみ殺して答えられる。

杏野先輩といい田中先輩といい、どうやら僕は強烈な性格の人に振り回される巡り会わせらしい。

とはいえ、英語研究会に入ったこと自体は後悔していない。サークル名だけで判断すると英会話を学ぶことが活動の主体に見えるが、実は行動範囲が広い。もちろん、基本はそうなのだが、あちこちの幼稚園や保育園に出向いて英語で歌ったり人形劇を披露したりと外での活動が多いのだ。まだ一度しか、それも荷物運びとしてしか参加していないが、子どもたちが人形劇を見て小さな手で拍手をしたり、回らない舌で一緒に歌ったりする様子はとても微笑ましく、美しい光景だったから。

 そんなことをぼんやり考えていると、急に黒服のスタッフから声を掛けられた。

 「すみません、そろそろ喫茶店に移動するんで、あっちのタクシーに乗ってもらえますか?」

 「あ、は、はい。先輩、移動だそうです。」

 「おう、わかった。おーい、出発するぞ。」

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