久しぶりのショートストーリー
花丸苑より
わたくしが住んでおります、ここ花丸苑は老人のための、ちょっと高級なアパートのようなものでしょうか。わたくしがこちらに住まうようになりましたのは、夫が亡くなり数年の一人暮らしの後の事です。
幸いと申しますか、遺族年金もありましたし、特に病気にもなりませんでしたから暮らしていくには困りませんでした。けれど、いつの頃からでしょうか、出かけるのが億劫になっていました。そして、ある日、ふと気がつくと、すっかり夜も更けていたのに、夕食の支度をそのままにぼんやりと座りこんでいるのに気がつきました。
これが老人性うつというものなのかしら。聞きかじりの言葉をあてはめて、底の見えない井戸を覗き込んだような気持ちになりました。
子どもたちはおかげさまで、皆、健やかに育ち、故郷を後にして就職し、結婚をし、生活の基盤を持ちました。今更、わたくしのことで負担をかけることはしたくありません。けれど一人で暮らしていくことには限界があることもわかりました。
これまで縁がありませんでしたが、初めて自分のことで役所の窓口に相談に参りました。そこで、こちらのことを知り、お世話になることを決めました。
申し遅れましたが、わたくしは豊栄ウメと申します。年齢は、そうですね、わたくしも女ですから、まだ八十になっておりません、と申しておきましょうね。ええ、お笑いになってもかまいませんよ。でも、こういうささやかな見栄というのは存外に心の張りになりますの。
さて、わたくしがこのような文章を書いていますのは、こちらの管理をされている方から、この花丸苑の宣伝をするための紹介を書いてくださいと頼まれましたからなのです。とても無理ですよ、と申し上げたのですが、どなたかへの手紙のような感じでかまいませんから、と言われますと断りきれませんでした。後で、ちゃんと手直しをしてくださいね、と念を押しておきましたので、この部分は省かれているかもしれません。
ようやく本題に入りますね。こちらの花丸苑にお世話になることを決めたわたくし個人のきっかけは先に書いたとおりです。でも、色々な施設がある中で、なぜこちらにしたかというと、実は、花丸苑には特別な訓練センターが併設されているからなのです。
老人のための施設ですから訓練センターというと、リハビリなどの老人のための訓練を行うところだと思われるでしょう? そうじゃないのですよ。犬の訓練センターなのです。ドッグランというそうですが、犬たちが自由に走れる広場もあり、20匹くらいの犬たちが日々、訓練を受けております。
どうして老人のためのアパートの側に犬の訓練センターがあるのか、どなたも悩まれることだと思います。なんでも、このアパートを作られた川原さんのお母様が、たいそう犬がお好きだった方なのです。ご自宅で最期を看取られたそうなのですが、その最期の時まで愛犬のジョンが付き添っていて、お母様の心の支えだったとのこと。ですから、川原さんは採算は置いておいて、この一連の施設はこれからの老人の、こちらの施設のパンフレットに書いてありますクオリティ・オブ・ライフ、生活の質を高めるために実験的に作られたのだとか。ちなみに花丸苑としたのは、亡くなったお母様に花丸をもらえるように、ということなんですって。男の方って、こんな風に可愛いらしいことを、時々、申されますわね。
あら、話が長くなりましたかしら。そうそう、わたくしも犬は好きで、子どもたちにねだられる度に飼ってはみたかったのです。でも、転勤族でしたので、次の住まいで飼えるかどうかわからないままでは、どうしようもありません。子育てが終わり、やっと落ち着いて暮らせると思った矢先に夫が倒れたものですから、気がついたら犬を飼えるような年齢ではなくなってしまいました。散歩が十分にできないと可哀想ですもの。こんなおばあちゃんでは、犬が走り始めたら、その勢いで転んでしまいそうなのも怖かったですしね。
それが、こちらのアパートでは犬たちの訓練の一環として、わたくしたちとの散歩をさせていただけるのです。もちろん歩かれるのが辛い方は、ただ撫でているだけでもかまいませんの。
大事なことを書くのを忘れていましたわ。こちらのアパートでは、最初に入居する時に10年間の保証金として入居料をお支払いします。入居後の10年間は光熱水費と食費などの基本的な料金をお支払いする形になります。ですから入居の際の費用は、かなり高額になります。わたくしも住んでいた土地と建物を処分しました。それくらいしか財産がございませんでしたし、子どもたちも了承してくれました。10年を超えた場合は、基本料金に上乗せがありますけど、その時の自分がどういう状態なのかはわかりませんですし、その時には、潔く子どもたちに迷惑をかけるつもりです。
もしかして、老人なのだから10年しない内に死んでしまうんじゃないかって、ご心配ですか? そうですわね。その場合は、お葬式などの費用に充てらえることが多いと思いますよ。ですけれど、多くの方は、こちらの施設に遺贈されるのではないかしら。
わたくしも、そのつもりなのです。それはサクラとの出会いがありましたから。
サクラは、とてもきれいな白い犬で、なんでも飼い主の方が保健所にいたサクラを選んで連れて帰られたそうなのです。ですが、日本の住居環境は、なんて厳しいのでしょうね。老齢になったサクラを連れて散歩していると、自分の庭先にオシッコをされたと非難される方がいたとか。困られた飼い主さんは、わたくしと同様、こちらの施設の噂を聞き、また会いに来ることを約束して預けられたそうです。
ええ、こちらの訓練センターは、犬の訓練を引き受けるだけでなく、飼いきれなくなった犬を引き取ってもくれるのです。もちろん、ただ引き受けるだけではパンクしてしまいますから、新しい飼い主を探してくださるのですよ。
でも、サクラのように老齢になった犬は新しい飼い主も見つかりにくいだろうからということで、わたくしたち花丸苑の住人みんなの飼い犬という扱いになるのです。
そう、サクラに出会ったのは、彼女の名前の通り桜の花の舞い散る季節でした。入居したばかりの不安でいっぱいのわたくしを支えてくれたサクラ。ええ、その頃のわたくしは、人と話すのが怖くなっていたのです。時間の感覚も、人づきあいの仕方も忘れてしまっていたようなわたくし自身への不安。でも、彼女と散歩に行き出して、思い出しました。草を鳴らす風。鳥たちの囀り。踏みしめる土を感じる足の裏。そして、しっかり散歩をして帰った時の食事の美味しいこと。いえ、何よりもわたくしが訪れた時のサクラの喜びよう、それが何よりも幸せなのです。
わたくしはサクラに生きるということの実感を思い出させてもらいました。彼女は犬ですから、犬らしく生きています。他の犬に対して不機嫌な態度を示すことも、いつまでも自分の満足いくまで草を嗅ぐこともやめません。かなりの高齢なのに、散歩から帰るのが嫌だとぐずる時の力の強いこと。
生き物が生き物らしく生きることの大切さ。なんだか大げさですけど、わたくし、思うんですの。わたくしの孫たちは、とても礼儀正しいのですけど、なんだか生きる力がサクラよりも乏しいのじゃないかしらって。
いやですわ。なんだか、ただの飼い主の自慢みたいになってしまって。こういう風に花丸苑の住人には、それぞれお気に入りの犬がいますの。いえ、こう言った方が言いかしら。花丸苑に入る最大の条件、それは犬が好きなこと。わたくし、幸せですわ。もちろん、このような施設に入るには、お金が必要です。それは夫に感謝しています。わたくしの持ち物で、一番の宝物は夫の位牌ですもの。でも、先に逝ってしまいましたからね。わたくし、あの世で貴方に会ったら、たくさん文句を言ってやりますからね。それから、ありがとう、って。
あらあら、これでは訂正をされる方が困ってしまいますね。でも、わたくし、文章を書くのは苦手だって申しましたもの。頑張って、手直しくださいませ。
こうして色々なことを改めて思い出せたわたくしの感謝の気持ちを噛みしめながら、ね。
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